今回はミック・カーン(Mick Karn、本名:アンソニー・ミカエリデス(1958年7月24日 - 2011年1月4日)
2010年6月、公式サイトにて進行形の癌である事を公表。
2011年1月4日、イギリス・ロンドンの自宅にて死去。享年52歳。
あの個性的なベースを今後新作で聴けなくなるのは・・残念です。
強烈なビジュアルも含め、直感的で超個性的なベースは・・まさに彼からしか生まれないものであったので、ジャパン時代からベーシストとしては高い評価を得ていたと思います。
本人は、楽譜が読めず独学でベースを覚えたことから、長年コンプレックスを持っていたようですが、裏を返して見れば・・・だからこそ、あのユニークなフレーズが生まれたとも言えるでしょう。
1982年「心のスケッチ」をリリース、1983年には、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロとシングル「アフター・ア・ファッション」をリリースします。
残念ながら、アルバムの制作は行われませんでしたが、ダリズ・カーのユニットに繋がっていきます。
ジャパン解散後は、数多くのアーティストのアルバムでセッションを行っており、ソロ活動でも多数の作品を残しています。
ジャパン時代から日本人と繋がりが深かったこともあり、矢野顕子の「愛がなくちゃね」、土屋昌巳の「Rice Music」、SUGIZOの「TRUTH?」、The d.e.p「地球的病気」にも参加しています。
彼の自伝。あまり幸せではない子供時代、JAPAN結成のいきさつ、恋愛やデビとの確執など彼のことが詳しくわかる本当に興味深い内容となっています。僕は何度も読み返しちゃいましたね。
・Titles"(1982年)
・Dreams of Reason Produce Monsters(1987年)
・Bestial Cluster(1993年)
・The Tooth Mother(1995年)
・Collector's Edition(1997年)
・Each Eye a Path(2001年)
・Each Path a Remix(2003年)
・More Better Different(2003年)
・Three Part Species(2006年)
・Selected(2007年)
・The Concrete Twin(2010年)
■ソロ作品以外
バウハウスのピーター・マーフィーと往年のわだかまりも解け、久しぶりにDali‘s Carを再結成。
病と闘いながら作成した最期の作品「InGladAloneness」
■音楽活動以外
元々、ギリシャのキプロスに子供の頃住んでいて、イギリスロンドンに引っ越し。
さて、そんな彼が学生時代にデイブ・バット(デビッド・シルヴィアン)と友達になってバンドを組んで、JAPANの音楽活動以外にも、レストランのペンギンカフェを当時日本人の恋人と10か月間営業。
(オープンから閉店まで盛況…しかし、ミック自身は早朝からのペンギンカフェの仕事にうんざりしていた・・との事。)
その彼女のその時の中国趣味がメンバーの趣味やJAPANのサウンドにも大きく影響を与えている様で、僕が1000回以上聞いているラストアルバム「錻力の太鼓」はメンバーにも影響したサウンドとジャケットになってます。
JAPANが解散した時期は、ようやく日本だけではなく英国本国や欧州でも人気が出始めた頃で、バンドとしてはこれから世界へという残念なタイミングでした。解散の原因は、主には人間関係のもつれ。詳しくは、自伝を読んでください。
ペンギンカフェにてミックが作った、指の形にカットしたビスケットは大盛況だったようです。
「シナモン風味のビスケットにチョコレートの爪、かじったときに血の代わりに出て来るジャム」
さすがベースだけではなく・・・料理も個性的で普通ではないw
で・・・僕と同様に猫を愛していた。本名カシミール・カーン(通称カッシュ)
彼女(カッシュ)はミックと最も長い時間をともにしたパートナーだった。写真から判断すると彼女はメインクーンか?
(写真 ミックカーン自伝より)
亡くなってからも、ずっとミックは財布に愛猫カッシュの写真を持っており、カッシュを火葬した後に灰をアンティークの木製の宝石箱に毛の束と一緒に入れて大切にしていたとの事。
本当にカッシュを愛していたのでしょう。
その他、ミックは彫刻にも才能を発揮。
1980年12月8日から20日までの12日間にわたり、ロンドンのハミルトンズ・ギャラリーで彫刻個展を開いています。その際の写真。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
ちなみに彫刻の値段は、当時の価格で約17万円から110万円。
やっぱり彼らしい個性的な作品が並んでいる。手の作品が1978年に作った一番最初の作品。
そこにミックの大ファンだったゲイリー・ニューマンが来て意気投合!?
もちろん、JAPANのメンバーも駆けつけてくれて祝ってくれた。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
そのほかハミルトンズギャラリーでは、デュラン・デュランのニック・ローズ、ザイン・グリフ、デイブとか個展を開いていた。
ちなみにザイン・グリフも若いころはボウイ風。近年、音楽活動を再開。
さて、ミックは1981年頃は将来的に日本に住もうと思っていた。
日本語が難しかったとの事で実現しなかった・・・。残念。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
でもJAPANは日本では凄く人気があったから日本とのつながりは深い。
1982年のJAPANツアーに参加していた土屋昌巳とはソロになってからも一緒にライブ活動。
SUGIZOとも音楽活動をともに、恋人も日本人だったり日本は最後まで大好きだったようですね。
ちなみにミックが参加した土屋正巳(一風堂)の作品とSUGIZOが主宰するCROSSレーベルからの作品。
天国で、彼は今でも彫刻作ったり、超個性なベースを弾いてると思っています。愛猫のカッシュも一緒じゃないかな。亡くなる前は、バウハウスのピーター・マーフィーとも仲直りした様で、良かったと思っています。
合掌