今回、セックス・ピストルズ。
ロンドンパンクと言えば・・セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、ストラングラーズ、スージー&ザ・バンシーズ辺りが代表的なバンドとして有名ですが、中でも大きなムーブメントを作った突出した存在だったのはセックス・ピスルズ。
セックス・ピストルズの登場以降、竹の子のように無数のパンク・バンドが登場し、その後のニューウエーブに繋がっていきますが・・
ロックにも歴史というものがあるとすれば、1977年が大きな変換点だったことは間違いない。
ろくすっぽ演奏は出来なくても、俺達でも何かやれると思わせる凄まじいエネルギー。
さて、そんな彼らのバイオグラフィー、ピストルズの場合はマネージャーであったマルコム・マクラーレンの要素抜きでは語れない。
ニューヨーク・ドールズ後期のマネージャーはマルコムがイギリスに戻ってイギリスでもパンク・ロックを流行らせようという目論みがあったところがそもそもの発端。
・・・でなければ、ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)は単なる、怒れる不良少年で終わったのでは。
マルコムが経営するブティック「SEX」に出入りしていた不良少年達を集めてセックス・ピストルズの前身バンドを作ったのは以外に古く
1974年で、バンド名は「スワァンカーズ」でした。
しかし・・全く上手くいかずに解散していたところに、常連客であった変わり者のジョニー・ロットンを迎え入れて1975年にセックス・ピストルズが結成。
1975年11月からライブ活動を開始、1976年にはシングル「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビュー。
曲は、ハードながらポップでキャッチーな要素もある名曲ですが・・ジョニー・ロットンの怒りに満ちた、歌詞・歌声・態度すべてが凄まじい破壊力。
音楽というか・・なんというかリアルな凄まじい形相に怒りの怨念のこもった叫び・・・
う〜む文章にするのが非常に難しい。それまでの音楽には見られないインパクトとでも言っておきますか。
歌詞からしても、「俺様はアンチクライストだっ!アナーキストだ!辺りかまわずぶっ壊す!このやろう!!」
(え〜w 正しい翻訳ではありませんが、イメージとしては近いと思う。)
ある意味、ジョニー・ロットンは天才というかなんというか・・・シンプルで煽動的なサウンドに、誰もが「ぎょっ」とするインパクトのある歌詞、当分忘れることができない・・憎たらしい?声・・
マルコム・マクラーレンの煽動によって、事が動きだしたのはそうでしょうが・・・ジョニーの登場によって、マルコムの思惑を遥かに超えた・・物が出来上がったのだと思います。
「アナーキー・イン・ザ・UK」には、彼らの要素が全て詰まっており全てを表していると思います。
ロックが、仮に反骨心や自由、怒りの表現だという定義であればこれほどそれを上手く表現した曲は他に無いかもしれません。
さて、レコード会社とのいざこざ等があって、オリジナルメンバーのグレン・マトロック(B)がジョニー・ロットンとの確執でクビに。
ジョニーの友人のシド・ビシャスが加入。
シド・ビシャスといえば、ライブでも鼻血をだして血まみれになりながら演奏?をしたり、客を殴ったり、恋人のナンシー・スパンゲンを刺殺した容疑者であり、ヘロイン中毒で早死にするなど・・まさにパンクの体現者であり、そのことが・・・ますますセックス・ピストルズを伝説化させたことはいうまでもありません。
しかし・・・単純にサウンドの面で言えば、作曲のキーマンであったグレン・マトロックが居なくなり、単純な演奏面でも不安がある麻薬中毒のシドの加入は、バンドの存続という意味では致命的だったと言えるかもしれません。
1977年5月、第2段シングル「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」
7月には「プリティ・ベイカント」をリリースし、人気に拍車をかけます。
しかし、彼らの歌詞や態度に腹を立てた人々も多く、放送禁止になったり実際にメンバーが暴行事件にあったり、逆にメンバーが暴行事件を起こしたりなど様々なトラブルを抱えていくことになります。
1977年10月、シングル「ホリデイ・イン・ザ・サン」そして・・歴史的なアルバム「ネバー・マインド・ザ・ボロックス」をリリース。
イギリスでの人気は頂点に達し、セックス・ピストルズを中心としたパンク・ムーブメントもピークに。
1978年アメリカツアー。マルコム・マクラーレンとジョニー・ロットンとの確執。
シドの演奏も酷いものでツアー自体も大きな成功は得られずジョニー・ロットンが脱退・解散。
その時のニュースは1978年のミージック・ライフ4月号(文/大貫憲章、撮影/ボブ・グル―エン)ではこんな感じで報道されていました。
アメリカツアーでは、演奏はともかく自己破壊的なシドが人気だったようですが・・腕の傷が気になるところですね。毒舌で話すジョニーの写真なんかも興味深かったです。
その後・・・本物の犯●者であるロナルド・ピッグスを迎えたりしますが・・結局上手くいかず、ドキュメンタリー映画のサントラである「グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル」を発表したりしますが、バンドは消滅。。。
その後、ジョニー・ロットンは本名のジョン・ライドンを名乗りPILを結成。
たまにPILでもピストルズの曲を演奏していましたが・・とうとうピストルズを復活。
1996年 オリジナルメンバーにより再結成、日本公演も含むワールドツアーを実施。
2002年以降も再結成を繰り返しています。
波紋を呼んだ再結成ライブアルバム。演奏は格段に上手くなっています。
2007年再結成ライブの映像!!
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■ベスト、ライブ
元々、1枚のオリジナルアルバムで解散しながら、後の世代にも大きな影響を与え続け、多数のベスト盤やライブが発売されることになります。
■関連書籍
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■Sid Vicious
シド・ヴィシャス (1957年5月10日 - 1979年2月2日)本名ジョン・サイモン・リッチー。
セックス・ピストルズの2代目ベーシスト。
麻薬中毒者で、恋人のナンシー・スパンゲンの殺害容疑者であり、喧嘩っ早く、上半身裸で鼻血を流し血だらけになりながら演奏をし、ドラッグのオーバードーズで早死。
しかし、いかにもロッカー的な男前のルックス、彼の壮絶な生き様と死に様は、パンク・ロックの体現者だった。
果たして彼は、幸せだったのだろうか。
元々、ジョン・ライドンの友人であり、キングス・ロードのマルコムとビィビィアン・ウェストウッドの店「SEX」をジョンに教えたのも彼だ。ところが、自分ではなくジョンがピストルズのボーカルに決まった事はかなりショックだった。
結果的には、ジョン・ライドンとグレン・マトロックの確執により、グレン・マトロックがバンドを追い出される形となり、ジョンが推薦する形で友達のシドがグレン・マトロックの後釜としてベースとしてピストルズに加入した。
ジョンからすれば、マネージメントしていたマルコムにもメンバーにも不満があり昔からの友人であるシドを入れることで安心したかったんだろうと思う。
シドは、ラモーンズの大ファンであり、ベースが弾けるようにモーターヘッドのレミーに教えをこいたが、「素質がない」と言われたようだ。
確かに、演奏家としては本人自身が認めているようにひどいものだし、彼が歌うマイウェイもけして上手いとは言えない。だが彼にはジョンと同様に他の誰もが持ちえないスター性があった。
しかし、ナンシー・スパンゲンや元NYドールズのギタリストであり英国で人気のあったジョニー・サンダースとの出会いがより、彼を危険な麻薬の道へ走らせることになった。ジョニー・サンダースは、シドの死をモチーフに名バラード「SAD VACATION」
を作ったが、彼自身薬物のオーバードーズで残念ながら亡くなっている。
さて、彼は多くのラジカルな発言を残した。
シド・ヴィシャス名言集より
俺はたくさん年を取る前に死んじまうと思う。何故だかわからないけど、そんな気がするんだ。
「俺はイギー・ポップのようになって30歳になる前に死にたいんだ」
「イギーはまだ生きてるぞ」
「…そんなことどうでもいいんだ」
大人達には知性なんてものはまるで無い。子供であることをやめるってことは、物事に興味を失うということなんだ。
年齢なんて関係ないんだ。たとえ99歳でも子供でいることは出来る。
ただコード弾いてブーンって鳴って、そしたら音楽だ。
さっさと消えちまいな、俺達にはプレスなんていらないんだ。俺達には誰もいらないんだ。
俺は自分のやりたいことをしたいんだ。世界中がそれを好きじゃなくても全然構わない。
もし一枚も売れなくったって、それが何だっていうんだ?
それが俺達のやりたいことなんだ。それをやっている時は楽しいし、後で聴いてみるのも楽しい。
自分達のレコードは好きだからよく聴くよ。実際いいレコードだと思う。
そうじゃなかったら参加してないと思う。ラモーンズを好きなのと同じくらい、自分たちのレコードが好きなんだ。
何かにイライラすると誰か敵が必要となるんだ。
でもいつもたくさんの友達に囲まれて座っていることが多くて、そんな場合友達には手が出せないから、俺は2階に上がってグラスを割ると、自分自身に切りつけるんだ。そうすると気分が良くなるんだ。
半分くらいは俺がグループの中で一番役立たずのオマンコ野郎だと思うことがあるよ。
俺は確かにバンドの中では最低のミュージシャンだ。でもバンドが当初目指していたものを体現しているのは俺だけだと思う。
俺はマヌケなサウンドチェックなんかしない。俺にはそんなもの必要ない、俺はシド・ヴィシャスなんだ!
彼もようやく俺のやっていることの正しさに気付いたんだ。
4人の気違いたちが遊びに出かけてやりたいことをやって楽しい時間を過ごすっていう、元々のバンドのアイデアを俺は実践したんだ。
俺はそれがピストルズをやる意味の全てだと最初から思ってた。
ステージ上ではパンクの格好をして、実際の自分とは違うパンクスのフリをしといて、家に帰れば襟のついたシャツとネクタイを締めるようなグループがいるけど、あんなのは信じられないな。
俺は映画なんて大っ嫌いだ。映画ではみんな決まった役をやらなければいけない。
自分自身とは違う人物の真似をして。俺の言っていることわかるだろう?
それは高慢で嘘でとにかく最低だ。物事を事実と違うようにでっち上げるんだからな。
ギターがすべったんだ!(客をベースで殴った言い訳)
俺は本当はヴィシャス(悪)じゃないよ。心根が優しくて、ママを愛してる。
俺達はホントは優しくて親切なんだ。でも、誰にでも獣のような側面はあるだろ?
他の3人はあまりにマトモ過ぎるんだ。バーでたむろして酒を飲んで、デブのそこら辺にいる売女とヤったりして、とにかく気持ち悪いんだ。
そんなライフスタイルが俺には我慢できないんだよ。
14か15歳の頃、女物の服を試してみた時期があった。
ほんの数カ月の間だけだけどね。
俺はストレートなセックスには興味ないんだ。変態行為が好きなんだ。
俺達は一緒に死ぬ約束をしてたんだ。こっちも約束を守らなきゃいけない。
死んだらあいつの隣に埋めてくれ。
ロットンは友達だった。とてもイイ奴だよ。俺は奴が好きだった、本当に。
奴はとてもラジカルだった。奴が俺のことをどう思ってたかは知らないが、俺は親友だと思ってたね。
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■ジョン・ライドンから
シドのことじゃ、苦しみと後悔と悲しさしか感じない。
俺はダチを亡くした。俺が変えられるようなことじゃなかった。若かったから。
畜生、俺がもっと利口だったら……あいつはクソみたいなもんのせいで死んだんだ。
死んだ奴を思えば悲しくなるよ。シドはいい奴だった。冗談が満載の奴だった。でもパンクという小賢しい産業が、あいつをユーモアの無い薬中の化け物に変えてしまった。
俺はくだらないロックンロールの方程式にはまりたくなかった。
音楽には人間性、その人自身を反映するべきだ。残念ながらピストルズ以前のバンドはそれをしなかった。
やらなければいけないと思われたことをやるだけ。それがミュージシャンをズタズタにする。みんな嘘をつききれなくなって、ヘロイン中毒になっちまう。
落とし穴に気づきながら、そこに落ちないでいるシドに俺は関心していた。
なのにピストルズに入った途端、シドはおぞましいナンシー・スパンゲンというグルーピーの罠にはまっちまった。
ナンシーはヘロインをやるべきだとシドに思い込ませた。スターは危険なドラッグをやらないといけないってね。シドはマジになってロックンロール的ライフスタイルを実践した。ヴェルベット・アンダーグラウンドやルー・リードの人生のアプローチ、ドラッグ体質を心底信じたんだ。(STILL A PUNK ジョン・ライドン自伝 ロッキング・オンより引用)
■関連書籍等
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■Public Image Ltd
今回はロックシーンに多大なインパクトを与えたパブリック・イメージ・リミテッド(通称ピル:PIL)。
セックス・ピストルズを脱退したジョニー・ロットンは、本名のジョン・ライドンと名乗るように。
1978年ジョン・ライドンは、ジャマイカで休暇を過ごした後、初期のクラッシュのギタリストであったキース・レヴィンや、ジャー・ウォブルに声を掛けて新バンドを結成。
そもそも、ライドンからすると、ロットン(腐った)という芸名!?自体気に入らなかった様で、自分の抜けたピストルズが腐って行くのを横目で見て、お前らがロットンなんだよと思っていたとの事w。
さて、ピストルズ自体はイギリスにおいて策士マルコム・マクラーレンの販促戦略もあり成功はしたものの、彼自身は散々な思いをしたので自分でコントロールできるバンドを作りたかったのだろうと思います。
彼は、雑誌のインタビューで本質を突く事を語っていました。(ロッキング・オン ROCK GIANTS 80’より)
●マルコムとしちゃあ、机にふんぞり帰って電話かなにかで尊大に振る舞っていればそれでよかったんだから、こんなボロいことってなかったろうよ。『どもども、私たちはトラブルメーカー、売りはバイオレンスでっす』とか売りこんでりゃあいいわけだ。
でも、そのバイオレンスを現実に生きて、ぼろ雑巾のようにされていたのはこの俺なんだからな。」
■アルバム
・パブリック・イメージ - Public Image: First Issue (1978年)
・メタル・ボックス - Metal Box (1979年)
・P.I.L.パリ・ライヴ - Paris au Printemps (1980年)
・フラワーズ・オブ・ロマンス - The Flowers of Romance (1981年)
・ライヴ・イン・TOKYO - Live In Tokyo (1983年)
・ジス・イズ・ホワット・ユー・ウォント - This Is What You Want... This Is What You Get (1984年)
・ALBUM (1986年)
・HAPPY? (1987年)
・9/ナイン (1989年)
・グレイテスト・ヒッツ・ソー・ファー - The Greatest Hits, So Far (1990年)
・ザット・ホワット・イズ・ノット - That What Is Not (1992年)
・Plastic Box (1999年)
・Live at the Isle of Wight Festival 2011 (2011年)
・ディス・イズ・PiL - This Is PiL (2012年)
・ロックパラスト1983 - Live at Rockpalast 1983 (2012年)
・ホワット・ザ・ワールド・ニーズ・ナウ - What The World Needs Now (2015年)
・The Public Image is Rotten - Songs from the Heart (2018年)
1978年12月ファーストアルバム「PUBLIC IMAGE」をリリース。
そのサウンドは非常に斬新であり、セックス・ピストルズ※のようなハードなR&Rを期待するファンは裏切ることになりましたが、まさにその後のニュー・ウエーブを象徴するような画期的なものでした。
※https://ukrock1977.work/category/11483614-1.html
結果的に、セックス・ピストルズでその当時のイギリスのロックシーンを一度破壊し、PILのこのファーストがその後のニュー・ウエーブ〜ポスト・パンクシーンを作る種を撒いたと思います。
そもそもピストルズがNYドールズ後期のマネージャーだった、マルコム・マクラーレンがアメリカのNYパンクに衝撃を受けてイギリスに戻り自国でもパンクを流行らせようと画策したバンド。
マルコムの奥さんであったヴィヴィアン・ウェストウッドの破壊的なファッション。(その当時の話)
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バイオレンスな歌詞。しかし曲自体はポップでキャッチ―であり、徹底したスキャンダラスなイメージ戦略や実際のメンバーの破壊的な言動で噂が噂を呼んだ・・・
ある意味非常に商業的な意味合いが強かったバンドであった。
ライドン自身はアメリカでもピストルズの成功を望んでいた。
しかし、実際はツアーでもメンバーは麻薬中毒やら何やらでロクすっぽまともに演奏できない事や、実際に暴行の被害に合うなどライドンからすれば、やめたくて仕方がない状態だったのでは。
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ただし・・・彼はマルコムの創造を遙かに超える才能とカリスマ的な存在感を持っていた。
でなければ、、あんな歌詞は書けないし、カリスマ的な人気も出なかった。さて話をPILに戻すと、特に初期のPILは強烈なインパクトを持っていた。
初期の頃のPILの写真集。
1979年にはセカンドアルバム「Metal Box」を発表。
当時、缶入りのレコードは非常に斬新なアイディアであり話題となりました。
またその中身も、非常にインパクトのある作品となっていました。
ジャー・ウォブルのうねるベースに、斬新なキースのギター、そこに絡むジョン・ライドンの不思議なボーカル・・
「P.I.L.パリ・ライヴ」PILの初期のライブアルバムで、ライドン、キース、ウォブル、アトキンスというラインナップでは唯一のものとなります。
1981年「Flowers Of Romance」をリリース。
ドラムが暴れまくり、その上に呪術的なライドンのボーカルが漂い病的なギターが被さったようなサウンドは、非常に実験的で面白い作品。
初来日公演の作品。ライドンのバックの看板が「カメラのさくらや」。
ライドンとレヴィンは「Commercial Zone」を完成させますが、意見の対立でリリース直前にレヴィンが脱退、アルバムはお蔵入り・・
(キース・レヴィンの自主制作盤として発表)
1984年に「This is what you want, This is what you get」を発表。ヒップ・ホップが導入。
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結果的にPILはロック・バンドというよりも、ライドン中心の流動的なプロジェクトとなっていきます。
1986年あのスティーブ・ヴァイ、ジンジャー・ベイカーや坂本龍一を迎えて「Album」を発表。レコードには「Album」ですが、CDでは「COMPACT DISC」となかなか洒落たタイトル。
1987年「Happy?」を発表。元マガジンのジョン・マッギー、元ポップ・グループのブルース・スミスを迎えた作品。
1992年ハード・ロックよりのサウンドアプローチの「That What Is Not」を発表。
このアルバムを最後に活動を休止していましたが2009年12月にイギリスツアーで活動を再開。
2011年ライブアルバムをリリース、そして2012年・・・なんと1992年以来20年振りに新作をリリース!
「ロックは死んだ」という名言を吐いた、ライドン自身は・・怒れるオヤジとしてまだまだ死なない。シブトイッ!
■関連書籍等
ジョン・ライドンの自伝。パンク、ニュー・ウエーブ/ポスト・パンク期の裏側が垣間見れる快作。
「楽しんでくれよ、さもなきゃくたばっちまえ。」ライドンの序文より。
ライドンのHP
http://www.johnlydon.com/jlhome.html