1982年、ジャパン解散後にデヴィッド・シルヴィアン(David Batt 1958年2月23日 - )は、ソロに転向し坂本龍一やロバート・フリップ等のミュージシャンとのコラボレーション作品を多数発表しています。
■ソロ作品
1984年「Brilliant Trees」
1985年「Alchemy: An Index of Possibilities」
1986年「Gone to Earth」
1987年「Secrets of the Beehive」
1999年「Dead Bees on a Cake」
2000年「Approaching Silence」
2000年「Everything and Nothing」
2002年「Camphor」
2003年「Blemish」
2005年「The Good Son vs. The Only Daughter」
2007年「When Loud Weather Buffeted Naoshima」
2009年「Manafon」
2010年「Sleepwalkers」
2011年「Died in the Wool」
2012年「A Victim of Stars 1982-2012」
2014年「There's a Light That Enters Houses With No Other House in Sight」
そんな彼の人生に興味のある方は、こちら「The Last Romantic」をどうぞ。ジャパン時代の写真も掲載されていて、ボツになったと思われるニューロマ風のメイク写真など面白かったですね。
1983年に坂本龍一との共演によるシングル「禁じられた色彩」をリリースします。
この曲は、デビッド・ボウイ、坂本龍一が出演した「戦場のメリークリスマス」のサウンド・トラックには収録されましたが、実際の映画には流れませんでした。
禁じられた色彩発表後、1983年10月号ミュージック・ライフ誌に記載されていた、ジャパン解散後彼が初めて語ったjapanの思い出を転記します。(インタビュアー:キム山門)
●今こうして話していると、あなたにとっての「ジャパン」というものは、すっかり過去のものになったという感じがするわね。
○そうだね、ジャパンが終止符をうった時には、本当にほっとしたよ。肩の荷がおりた感じだった。
終わりを決めてから実際に完結するまで、長い時間がかかったからね。ビデオやライブアルバムを作らなければならなかったし、それに最後のフォト・セッションなんかは解散につきものだし・・・僕らを一緒にすることが、なにかしら起こっていた。
そういうことが重なれば重なるほど、僕にはそういうことが嫌になって、早く全てを終わりにしたかったんだ。そして1〜2ヵ月後、本当に全てが終了した時僕らがやっていたことが間違っていたこと、そしていろんなことがいかにももったいぶっていたか、ということが見えるようになってきたんだ。ああいう状況の中では二度と仕事はしたくない。
●ジャパンのことは忘れてしまいたいと思っている間も、実際に「メモリアル・ライブ〜オイル・オン・キャンバス」が成功を収めているっていうのは、不思議なものでしょうね。
○うん、そうだね。
●でも、あのアルバムは、いわゆる”ライブ・アルバム”とは違っていて、とてもいいと思ったわ。
○でもライブ・アルバムというのは、どっちにしても退屈・・・そう思わないかい?(笑)ライブ・アルバムがすきな人なんて1人もいやしない。
それが問題なんだ。だから僕らのライブ・アルバムは、何か違ったことをトライしてみたかった。そうすれば、みんな聴く気になるかもしれない・・・そういうことだったんだ。
●スティーブやリチャードやミックとは、これまで長年一緒にやってきたわけだけれど、彼らは今じゃ、本当に優れたミュージシャンになったと思うの。あなたは彼らをどう評価しているのかしら?
○スティーブは常にいいプレーヤーだったし、とても技量があると思う。もっとも明白に、そして着実に進歩したよ。
リチャードは、ジャパンがスタートした当時は、あまりうまくプレイできなかったね。かれはピアノを弾くテクニックを持っていなかったから。
でも、その後、シンセサイザーを使うようになって、これが彼を少し変えることになったんだ。リチャードはサウンドをクリエイトすることを始めるようになった。
ミックも、ある意味ではリチャードの場合と似ているといえるね。でも彼は、彼独特のベース・プレイを発展させたと思うよ。
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1984年、1stソロ「ブリリアント・トゥリーズ」を発表します。個人的には、ソロ作品の中では一番好きですね。近年は、声も太く変わっていますし、まだ商業性も感じられる作品だからかな・・・。「ブリリアント・ツリーズ」の次に出たのが、坂本龍一、土屋正巳、ロバートフリップ、パーシージョーンズ、ホルガーシューカイなど豪華メンバーが参加の当初カセットのみで発売された「錬金術 Alchemy」。
「ブリリアント・トゥリーズ」はアコースティックな音楽性を取り入れながらも、80年代のジャパンからの流れも感じさせる作品でスマッシュヒットしました。
アルバム発表後、1984年7月号ミュージック・ライフ誌の彼へのインタビューを一部抜粋して転記します。(インタビュアー:キム山門)
●ソロアルバムの話から始めたいんだけれど、トップに収められた”プリング・パンチズ”からは「錻力の太鼓」の雰囲気が感じられたんだけれど・・・
○あの曲は初めの頃に書きあげた曲なんだ。アルバムの中では、他のどの曲より、ジャパンに近いものだと言える。
ただ、あの曲にはジャパンにはなかったダイナミックなエネルギーが存在していると思う。ジャパンの曲は、全て雰囲気を基盤としたものだったからね。
僕は気分とか、雰囲気とか、そういうものをまったく考えない曲を作ってみたかったんだ。
あの曲に関しては、かなり大きな音で聴くべきだと思う。そうすると、あの曲が何を歌っているのかわかるよ。そんなタイプの曲だよ。
●それは大きな変化だと思うわ。ジャパンのアルバムは、決してそんな大きな音で聴こうと思わなかったもの。
○同じことが他の曲にもあてはまるかどうかは、わからないけれど・・・他の曲は”プリング・パンチズ”よりムードを大切にしたものだからね。
でも、本当のこと言うと、あの曲をアルバムに入れるかどうか、かなり迷ったんだ。他の曲とは違った印象を持っているからね・・・アルバムの1曲目としてはいいと思うけど。
●シングルにはどの曲を選んだの?
○”レッド・ギター”だよ。”プリング・パンチズ”では、アルバムがどういうものか、みんなに間違った印象をあたえてしまうんじゃないかと思って・・・
この頃、音楽以外でもポラロイド写真集を発表します。
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ロンドンのハミルトン・ギャラリーにて展示会も開催されました。写真のコラージュとか、おもしろいですよね。
また、日本滞在中に撮影したドキュメント・ビデオ「美しき予兆」を発表します。美しい映像ですよ。
1986年、ビル・ネルソンやキング・クリムゾンのロバート・フリップを迎えて「遥かなる大地」をリリース。
デヴィッドは、1980年代のキング・クリムゾンが好きだったようでロバート・フリップをゲストギタリストとして呼んだわけですが、
ここからロバート・フリップとの関係が生まれて・・キング・クリムゾンのボーカルとして誘われますが・・・
断わるものの後に共作「The First Day」を作るようになります。
でも、残念ですね結構デビッドは、クリムゾンとマッチしたと思うんだよね。
ただ、性格的にフリップとぶつかって長続きはしなかったかもだけど、
もう一枚は作れたんじゃないかな?
1987年には、「シークレット・オブ・ザ・ビーハイブ」を発表。少々・・地味な感じは否めませんが、非常に深い歌詞と曲で完成度は高い作品であり、デヴィッドのファンならば、満足する作品かと思われます。1989年非常に前衛的でアーティスティックなシングル「POPソング」をリリース。そして12年ぶりに1999年アルバム「Dead Bees on a Cake」をリリース。
段々とジャパンの時の様に「売れたい」「ヒットしたい」とか感じさせないアート的な作風に以降なって行くんだよね。
やっぱり、ジャパン時代の最大のヒットが個人的な作風の「ゴースツ」だった事が、
彼のその後の方向性を決めたのかもしれないね。
個人的には「クワイエットライフ」の頃のようにあがきながらキャッチーな曲を模索していた頃も好きなんだけどね。
1999年4月号Keyboard magazineに「Dead Bees On A Cake」発売に合わせた彼のインタビューが記載されていたので、一部抜粋して記載。(text: Yoshio Ojima)
●12年ぶりのソロ・アルバムですが、ソロ名義のアルバムとコラボレーションには心構えの点での違いはありますか?
○ソロだと曲作りからミキシングまで、すべて自分の思いのままにできるけど、コラボレーションだとパワーや方向性の一部を相手に与えることになるからね。
今回のアルバムは、断続的ではあるけど3年かけてレコーディングし、あらゆる面で本当に完璧だと思えるまでやれたから、最近僕がやったどの作品よりも身近に感じられるね。
●新作はこれまでのソロ・アルバムと少しイメージが違うように感じたのですが、心理的な変化などはあったのでしょうか?
○ここ5〜6年の間に随分変わったと思うけど、大半はポジティブなものだった。
結婚してアメリカへ居住したし、ふたりの素晴らしい娘に恵まれた。そのほかにはスピリチュアルな面での師とも出会ったし、そういったことがかなり短時間に起こったんだ。
これらすべてがアルバム作りに取り込まれ反映されているから、アルバムの根底には一貫して”喜び”が存在していると言えるだろうね。
●最後に、熱心なファンの多い日本のリスナーにひと言いただけますか。
○新作を気に入ってくれるとうれしいな。ソロ・アルバムを出すのは実に久しぶりのことだけど、これは僕の最高傑作と思っているし、僕の心にとても近いものなんだ。だから、そこに何らかの価値を見いだしてほしいと願っているよ。
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その後のアルバム
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2006年、弟のスティーブ・ジャンセン、バーント・フリードマンの3人でナイン・ホーセスを結成。ファースト・アルバム「スノー・ボーン・ソロウ」には坂本龍一らも参加し、独創的な音作りをしています。
■関連書籍等
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■楽譜等
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■JAPAN
1975年英国でデヴィッド・シルヴィアン、スティーブ・ジャンセン、ミック・カーンにより結成。
■アルバム
・1978年 Adolescent Sex
・1978年 Obscure Alternatives
・1979年 Quiet Life
・1980年 Gentlemen Take Polaroids
・1981年 Tin Drum
・1983年 Oil On Canvas
元々仲の良い高校の同級生のデビッドとミック、そこに相性のよかったデビッドの実弟スティーブの3人でバンドをやろうという話になり、まもなく同じ高校だったリチャード・バルビエリが一緒にバンドをやりたいとキーボーディストとして参加。
面白いのは、学校では同級生ながら、あまり話した事も無く、リチャードはきちんと就職していたのですが、たまたま出会った際にバンドの話しをした所、仲間に入れてくれという流れになった様です。
バンド名は、バンド名を考えていた頃にたまたまTVで日本の番組を見る機会があり興味を持ちジャパンと思い付きでつけた様ですが、プロデビュー後にいきなり日本で爆発的な人気を獲得した事や、その後も日本や日本のミュージシャンと縁が深かった事を考えると運命的なバンド名だったと言えるでしょうね。
元々、ミック、デビッド、スティーブの3人はデビット・ボウイの大ファンだったようですが、バンド結成時NYドールズにデビットとスティーブはハマっていたらしく…其れを考えると、もしかするとシルヴィアンという名前は、ドールズのシルヴェインをもじったのかも…です。本名は、デビット・バットなんで。
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さて当初は、ミックがボーカルとして活動を考えていたのですが、アマチュアとして最初のライブでミックがあまりに緊張して歌え無いから変わってくれ…という話になり、デビッドがボーカルに。スティーブは最初からドラムだったようです。
1976年メロディー・メイカー紙にギタリストのメンバー募集広告を出したところ、それを見て応募してきたロブ・ディーンが加入。
そして同年にドイツのアリオラ・ハンザ・レコードと契約。1978年に「Adolescent Sex (果てしなき反抗)」でデビュー。
日本ではその強烈なビジュアルからかレコード発売以前から異常な反響をよび、9月の発売当日には1日だけで1万5千枚という驚異的なセールスを記録。
(写真は、ロッキング・オン 1978年11月号表紙)
また同年にセカンドアルバム「Obscure Alternatives (苦悩の旋律)」を発表し、初来日でいきなり武道館での公演を行うなど、爆発的な人気を誇りました。
一方、英国では日本の盛り上がりとは反対で評価が低くなかなか人気が出ませんでした。
ミュージック・ライフ1979年3月号に、来日直前の東郷かおる子さんのデビへのインタビューが記載されており、面白い内容なので、一部、転記させて頂きます。
○今回のインタビューは、あなた自身のことも含めて、ジャパンの音楽についても色々と聞きたいんだけど、えーと、あなたは今21才だっけ?22才?
●20才だよ。
○20才!ずいぶん若いのね(と、こちらはしばし絶句)
●なにに対して若いの?(こちらをチョッとにらむ)
○20才だなんて、まだ人生が始まったばかりという意味よ。
●うーん、そうかなぁ、僕にとってこの20年は長かったよ。
○すごく初歩的で、くだらない質問だと思うかもしれないけれど、あなたはどうしてお化粧を始めたのかしら?●学校へ行っていた時、制服を着なければならなかったから。勿論長い髪もダメ、男の子は男の子らしくというわけさ。そこで、そういう意味のないルールを破るためにメイクを始めたんだ。髪の毛も染めた。
僕のこうした行動は、他の生徒達にも支持されると思ったんだ。ところが彼等は学校側について、僕は追い出されたというわけ。メイクは、僕の表現のひとつなんだ。
○この日本での突然の人気というものを本当にどう思っているの?
●正直いって突然のことでおどろいているよ。いつ頃だったか、僕達のレコードが日本で売れているって聞いてね。それまで日本の市場のことなんて考えたこともなかったんだ。だって僕達のレコードが日本で発売されていることすら知らなかったんだよ。とにかくおどろいてるね。
○あなたが作詞や作曲する時は、どんなふうにして作って行くの?
●歌詞についていえば、すべて印象からだね。ある事柄の印象をひとつのセンテンスにして、その言葉を使って詩を作っていくんだ。
●メロディーはそこにあるのさ。”音楽”そのものが先に浮かんで、それがメロディーになり、歌詞を入れるんだ。だから同時には作らないよ。コード進行に合わせて詩を考えるね。そうじゃなければ、あるタイトルがふっと浮かんで、そこから詩が生まれることもある。
で…このインタビューの同年、1979年のシングル「Life in Tokyo(ライフ・イン・トウキョウ)」を機にエレクトリック路線へ移行。
ジョン・パンタ―をプロデューサーに起用した3枚目「Quiet Life(クワイエット・ライフ)」はクオリティの高いアルバム。
デビッド・シルヴィアンの髪型は、アンディー・ウォーホルに影響を受けたようです。
この頃からデビッド・シルヴィアンの内省的で深みのあるヴォーカルとリリック。
ミック・カーンブーンの超個性的なうねるフレットレスベース、リチャード・バルビエリのイマジナティブで抽象的なシンセサウンド、スティーブ・ジャンセンのセンスを感じる独特のリズムアレンジが見られるようになります。
他に類を見ない個性を確立し、先行して人気のあった日本だけではなく英国本国〜欧州でも評価を高め始めます。
私自身がジャパンを知ったのもこの頃。MTVで「クワイエット・ライフ」の映像を見て、何やらわからないカッコ良さと衝撃を受けました。
私自身は、昔のミュージックライフとか結構大切に持っていたりしますが、なんと・・シンコーミュージックさんが「ミュージックライフから見たジャパン」という画期的な本を2018年に出版してくれました。結構高い・・かもですが貴重なので私は購入しました。
もちろん、昔のミュージックライフの内容と被っているのですが、全部持っているわけではないので新たな発見がありましたね。
その後アリオラ・ハンザからヴァージンに移籍し、1980年に「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」、
1981年に「Tin Drum(錻力の太鼓)」と立て続けに非常に個性的で創造性に富んだ名作を発表し、英国や欧州でもこれまでにない反響をよびツアーも即完売するほどの大成功を収めます。
わたしも、「Tin Drum(錻力の太鼓)」は非常に好きなアルバムで何回聴いたかわからないほど・・・繰り返して通して聴いたアルバムでした。
なおロブ・ディーンが5枚目の制作前に脱退したため、最後のツアーでは日本から一風堂の土屋昌巳さんがサポートとしてギターを担当しました。
この本は、解散ツアーに同行した貴重な写真集ですね。1982年9月〜12月まで行った最終ツアーに、カメラマン、フィン・コステロが同行し、撮影した写真を集めた1冊です。9月のリハーサルに始まり、欧州、英国、香港、最後に日本ツアー、12月16日名古屋公演をもってJAPANは解散しました。
ライヴは1982年にハマースミス・オデオンで行なわれ、土屋昌巳さんがギターとキーボードを担当。
また近年、自身がJAPANファンの作者アンソニー・レイノルズが、メンバー、スタッフ、友達そしてファンからの写真、過去のインタビューや記事を元に書いた書籍が販売されました。かなりのボリュームがあります。1982年に解散したバンドの本が30年以上経過して(約40年)発売されるのも、このバンドの面白いところではないでしょうか。幾つかの伝説的なバンドを除くと余程人気があったバンドでもなかなか出版は困難ではないかと、ましてや出版しても売れるのか??という。買う人って俺か?みたいな。
解散に至るまでのメンバー達の内に秘められた各々の人間模様、バンドとして解散へと向かう部分は、心を打つものがあります。
また、1991年には解散時の4人でRain Tree Crow(レイン・トゥリー・クロウ)
名義でアルバム「Rain Tree Crow」をリリースし往年のファンからは「JAPAN再結成か!」と話題を呼びましたが人間関係の拗れからか・・再結成は短命に終わりました。
■バンドスコア
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■ミック・カーン
今回はミック・カーン(Mick Karn、本名:アンソニー・ミカエリデス(1958年7月24日 - 2011年1月4日)
2010年6月、公式サイトにて進行形の癌である事を公表。
2011年1月4日、イギリス・ロンドンの自宅にて死去。享年52歳。
あの個性的なベースを今後新作で聴けなくなるのは・・残念です。
強烈なビジュアルも含め、直感的で超個性的なベースは・・まさに彼からしか生まれないものであったので、ジャパン時代からベーシストとしては高い評価を得ていたと思います。
本人は、楽譜が読めず独学でベースを覚えたことから、長年コンプレックスを持っていたようですが、裏を返して見れば・・・だからこそ、あのユニークなフレーズが生まれたとも言えるでしょう。
1982年「心のスケッチ」をリリース、1983年には、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロとシングル「アフター・ア・ファッション」をリリースします。
残念ながら、アルバムの制作は行われませんでしたが、ダリズ・カーのユニットに繋がっていきます。
ジャパン解散後は、数多くのアーティストのアルバムでセッションを行っており、ソロ活動でも多数の作品を残しています。
ジャパン時代から日本人と繋がりが深かったこともあり、矢野顕子の「愛がなくちゃね」、土屋昌巳の「Rice Music」、SUGIZOの「TRUTH?」、The d.e.p「地球的病気」にも参加しています。
彼の自伝。あまり幸せではない子供時代、JAPAN結成のいきさつ、恋愛やデビとの確執など彼のことが詳しくわかる本当に興味深い内容となっています。僕は何度も読み返しちゃいましたね。
・Titles"(1982年)
・Dreams of Reason Produce Monsters(1987年)
・Bestial Cluster(1993年)
・The Tooth Mother(1995年)
・Collector's Edition(1997年)
・Each Eye a Path(2001年)
・Each Path a Remix(2003年)
・More Better Different(2003年)
・Three Part Species(2006年)
・Selected(2007年)
・The Concrete Twin(2010年)
■ソロ作品以外
バウハウスのピーター・マーフィーと往年のわだかまりも解け、久しぶりにDali‘s Carを再結成。
病と闘いながら作成した最期の作品「InGladAloneness」
■音楽活動以外
元々、ギリシャのキプロスに子供の頃住んでいて、イギリスロンドンに引っ越し。
さて、そんな彼が学生時代にデイブ・バット(デビッド・シルヴィアン)と友達になってバンドを組んで、JAPANの音楽活動以外にも、レストランのペンギンカフェを当時日本人の恋人と10か月間営業。
(オープンから閉店まで盛況…しかし、ミック自身は早朝からのペンギンカフェの仕事にうんざりしていた・・との事。)
その彼女のその時の中国趣味がメンバーの趣味やJAPANのサウンドにも大きく影響を与えている様で、僕が1000回以上聞いているラストアルバム「錻力の太鼓」はメンバーにも影響したサウンドとジャケットになってます。
JAPANが解散した時期は、ようやく日本だけではなく英国本国や欧州でも人気が出始めた頃で、バンドとしてはこれから世界へという残念なタイミングでした。解散の原因は、主には人間関係のもつれ。詳しくは、自伝を読んでください。
ペンギンカフェにてミックが作った、指の形にカットしたビスケットは大盛況だったようです。
「シナモン風味のビスケットにチョコレートの爪、かじったときに血の代わりに出て来るジャム」
さすがベースだけではなく・・・料理も個性的で普通ではないw
で・・・僕と同様に猫を愛していた。本名カシミール・カーン(通称カッシュ)
彼女(カッシュ)はミックと最も長い時間をともにしたパートナーだった。写真から判断すると彼女はメインクーンか?
(写真 ミックカーン自伝より)
亡くなってからも、ずっとミックは財布に愛猫カッシュの写真を持っており、カッシュを火葬した後に灰をアンティークの木製の宝石箱に毛の束と一緒に入れて大切にしていたとの事。
本当にカッシュを愛していたのでしょう。
その他、ミックは彫刻にも才能を発揮。
1980年12月8日から20日までの12日間にわたり、ロンドンのハミルトンズ・ギャラリーで彫刻個展を開いています。その際の写真。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
ちなみに彫刻の値段は、当時の価格で約17万円から110万円。
やっぱり彼らしい個性的な作品が並んでいる。手の作品が1978年に作った一番最初の作品。
そこにミックの大ファンだったゲイリー・ニューマンが来て意気投合!?
もちろん、JAPANのメンバーも駆けつけてくれて祝ってくれた。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
そのほかハミルトンズギャラリーでは、デュラン・デュランのニック・ローズ、ザイン・グリフ、デイブとか個展を開いていた。
ちなみにザイン・グリフも若いころはボウイ風。近年、音楽活動を再開。
さて、ミックは1981年頃は将来的に日本に住もうと思っていた。
日本語が難しかったとの事で実現しなかった・・・。残念。
(シンコー・ミュージック:ミュージックライフ1981年3月号より)
でもJAPANは日本では凄く人気があったから日本とのつながりは深い。
1982年のJAPANツアーに参加していた土屋昌巳とはソロになってからも一緒にライブ活動。
SUGIZOとも音楽活動をともに、恋人も日本人だったり日本は最後まで大好きだったようですね。
ちなみにミックが参加した土屋正巳(一風堂)の作品とSUGIZOが主宰するCROSSレーベルからの作品。
天国で、彼は今でも彫刻作ったり、超個性なベースを弾いてると思っています。愛猫のカッシュも一緒じゃないかな。亡くなる前は、バウハウスのピーター・マーフィーとも仲直りした様で、良かったと思っています。
合掌